『守谷の記憶』〜高野の巻〜


(会田醤油醸造店)
mfpのある高野地区は昭和30年に守谷町などと合併するまで「高野村」という村でした。明治時代後期、江戸川と利根川をつなぐ運河(利根運河)が開通すると、東京との間に蒸気船「通運丸」や高瀬舟が往来し、高野村はこの地方の玄関口の一つとして大いに栄えたといいます。そんな昔の高野村をイメージしながら、mfpの周辺を散策してみました。
まずはmfpの周辺。このあたりには以前、高野村の役場がありました。東京からの船が着く渡し場と守谷町とをつなぐ中継点で、にぎやかな村の中心です。mfpの脇の道をまっすぐ奥へと進んでいくと、幾つもの蔵が見えてきてちょっと昔のまちに迷い込んだような風景に出あいます。実は、ここ、以前は醤油の醸造所があったところ。この「会田醤油醸造店」は近くの「岩田酒醸造店」とならぶ高野村の代表的な商家として、村の産業の屋台骨を支えていたといいます。モダンな感じのレンガの煙突を眺めていると、忙しそうに駆け回る職人の姿が目に浮かんで香ばしい醤油の香りがただよってくるようです。

(会田仲屋店)
 mfpの裏手の道も昔からの道。奥へと歩いていくと利根川の渡し場を案内する道標があり、道は利根川の河川敷へと向かって下っていきます。竹林に包まれた細い坂道を下ると、やがてあたりは開けて大きな原っぱに。高野の昔を良く知る方の話によれば、今は何もないこのあたりも、かつては沢山の家が並び、様々な生業を立てていたのだといいます。利根川の渡し場から高野村へと入るあたりにあった「会田仲屋店」は、精米や穀類、肥料や 石油、砂糖、塩など生活に係わるあらゆるものを扱っていたことから、別名「高野の百貨店」とも呼ばれていたとか。
このあたりは利根川が近く土地も低いことから、大雨で利根川が増水すると度々浸水したり、家が流されるなど、決して暮らしの容易な場所ではありませんでしたが、当時の人は互いに助け合い、支え合いながら暮らしていました。利根川が増水すると上流の河川事務所から連絡が入り、 下流に水が押し寄せるまでの数時間の間に、皆で力を合わせて浸水地域の家の家財や商品を高台へと運び出していたそうです。
会田仲屋店から村役場へと向かう坂道を上ると、そこには沢山の裕福な商家が立ち並んでいました。明治末期から大正時代にかけて、わが国の養蚕業の発展をもたらした先駆者、岩田太郎氏が養蚕を振興するための講習所を開いていたのもこのあたり。私たちの知らないたくさんの土地の記憶を蓄えながら、今は静かな佇まいを見せています。     (barista)